「日本国紀」百田尚樹を読む ② 白村江の戦い

日本国紀 百田 尚樹

1 朝鮮半島に日本政府(任那みまな)があった事実

日本書紀によると、西暦552年に百済(くだら)の聖明王が、日本の朝廷(当時の欽明天皇)に釈迦物(金銅像)と経典数巻を献上したとある。その頃の朝鮮半島は、高句麗、新羅、百済の三国が支配していたが、日本はとくに百済と、政治、軍事、経済、文化において深い関係にあった。百田尚樹氏は百済を植民地化していたのでは推測している。

隋を滅ぼした唐は新羅と同盟を結んで百済を攻めて滅ぼした(663年)、この後も唐と新羅の同盟軍は高句麗に攻め入りこれも滅ぼしてしまう(668年)。

このとき、滅びた百済王朝は再興をはかるため日本に助けを求めてきた。斉明天皇は之に応えて、約2万7千人の兵を派遣した(斉明天皇は急死する)。当時の日本国(倭国)の規模からすれば、膨大な軍の派遣である。百済が日本にとって重要な要所であったことを物語る。

これが白村江の戦いで、日本海軍は唐軍と新羅軍の挟み撃ちに会い、壊滅する。

2 日本が義の戦いを挑んだ、これを新羅が見倣う。

日本はいったん滅んだ百済の再興を図り、義の戦いを新羅に挑むが敗北する。一見、無駄になったこの戦いだが、新羅に感銘と独立心を与え、その後、唐の侵略に屈することなく新羅は独立を維持する。負け戦さといえども、意地を見せた戦いだった。戦争では負けても意地を見せることがその後の戦争抑止力や防衛につながる。その証拠に、その後、新羅も唐も日本に攻め入ることはなかった。

3 防人のこと

白村江の戦いの後、日本は、唐と新羅の侵攻を恐れ、北九州の防衛のため、「水城(みずぎ)」と呼ばれる土塁と外濠を築き、「防人(さきもり)」と呼ばれる兵士を配置した。防人は一種の徴兵制度である。防人の多くは東国の男たちで、かれらは故郷を離れ九州に赴いた。

「万葉集」には防人の歌が百首もある。大和朝廷は真剣に国の守りを考えたのだ。

4 大伴部博麻(おおともべのはかま)の話

白村江の戦いに参加した日本軍兵士の中に大伴部博麻という人物がいた。博麻は唐軍に捕らえられ長安に送られる。664年に唐が日本侵略を企てているという情報を得た博麻は、自らを奴隷として売り、その金を捕虜になっていた4人の遣唐使に与え、彼らを解放し帰国させ、朝廷に唐の侵略計画を伝えた。

その後、博麻は自由の身になり、27年後に帰国したが、持統天皇は博麻の国を思う心と行動に感謝し、「朕、その朝を尊び、国を愛(おも)ひて、己を売りて忠を顕すことを嘉(よろこ)ぶ」という勅語を贈った。

日本では、すでにこの時代に、強い愛国心と、国防の必要性が自覚されていたということは驚きである。

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